清瀬 六朗

近代民主主義は本質的にさまざまな問題点や危険さを抱えている。「多数の暴政」の危険、同じことだが「法の支配」を打ち破って暴虐な恣意的支配を実現してしまう可能性、ところが逆に多数派が形成されないばあいには機能を停止してしまうという問題、近代民主主義が担いうる問題解決能力の限界、その限界を補充するかたちで忍びよる行政官僚機構による専制の危険、危機が迫れば独裁に急に接近するという気まぐれさ、戦争との関係、ある程度の余裕がないと人びとは民主主義を支えていられないという問題、また、反対に人びとは民主主義のあかしとして政権から「パンとサーカス」の施しを期待してしまうという問題――これらの問題は、原始的民主主義の段階から近代民主主義の段階へと進むにつれて次々に湧き出てきた問題である。しかもどれ一つとして解決されていない! 問題が顕在化しないから、問題がなくなったようなふりをしているだけで、現実に問題が現れてきたときには絶対に有効な対処法を私たちが持っているわけではないのだ。 このような実態を見ると、第二次世界大戦をイギリスの首相として指導したチャーチルが「民主主義は最悪の政治体制である」と言ったのも理解できる。しかし、同時に、「ただし、それはほかのすべての政治体制を除いて最悪なのだ」と言ったことばも、私は認めなければならないと思う。つまり、私たちが民主主義を選択しているのは、「最悪のもの」と「最悪より悪いもの」の選択の結果なのだ。 民主主義がそれだけ「最悪」でも現在の政治体制として最適だと考えるのは、それが現在の世界の人びとの「共同意識」に比較的よく一致しているからである。いや、よく一致していないかも知れないが、それ以上に一致させることのできる政治体制がないから、「最悪より悪いものよりはましな最悪」として受容しなければならないのだ。